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ひらめきと弁証法

そういえば、転職しました。転職先の社長と何人かご飯を食べていた時に、社長が「昔の優秀なクリエイターは、弁証法でものを考える、と言っていた。アウフヘーベンというやつだ。

Aなのか、Bなのか、という二項対立ではなく、昇華した中間としてのCを考える、というものらしい。ぼくも初めて知った。弁証法という単語はわかったけど、意味がよくわからなかった。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

前に、KIITO(神戸デザインクリエイティブセンター)がIDEOと一緒に「新しいパンをつくる」ラボをやっていて、そこに参加していた。ぼくらのチームが考えあぐねてた時に、IDEOのひとがふらふらっと顕れて、AとBで僕らが揉めていたところに、Cというアウフヘーベンを提示してきた。

そんときはシンプルに「すげぇ」としか思えなかった。当時は一人称、二人称、三人称の解釈をしたけども、違う見方をすれば、あれはアウフヘーベンになるのか。

 

nzmt-i2o3.hatenadiary.jp

 

ことアイデアを考えるにあたっては、弁証法が有効だと思う。Aなのか、Bなのか、という対立軸から離れ、矛盾を抱えつつも両者を昇華した存在Cを提示する。見た人は、どことなく新しさを感じる。

 

最後に補足として。

広告クリエイティブにおける、アウフヘーベンに関してはJAAAの論文で市耒健太郎さんが言及されている。

http://www.jaaa.ne.jp/wp-content/uploads/2012/03/Essay_Contest_411.pdf

市耒さんは博報堂の恋する芸術と科学をやってきた人で、このときは既に雑誌「広告」の編集をやられていたのだろうか。恋する芸術と科学なんて、もうアウフヘーベンそのまんまだった。

3年前くらいか、大学生向けWSに招待していただいたけれど、自分の中で貴重な経験になっている。今になってとてつもない価値に気づいた。

WHERE ART AND SCIENCE FALLIN LOVE

jozo2050

 

姫性について。溺れるナイフを見た。


『溺れるナイフ』本予告

 

昨日、レイトショーで溺れるナイフを見てきた。事前に箕面ビールを2本くらい飲んでから出かけたので、難しい内容はよくわからなかった。最後のオチもなかなか気持ちの良いものじゃなかった。僕のような頭があまりキレない人にむけて無理やりハッピーエンドをねじ込まれたような気がした。何者もそうだけど、ビターエンド・バッドエンドで終わる気持ちよさが欲しかった。

ともかく、ストーリーをものすごくざっくりと言えば

「モデルをやっているヒロイン(小松菜奈)が田舎に転校してきて、地元の名家の息子(菅田将暉)に惹かれ恋をする。著名なカメラマンに写真を取ってもらい、芸能界も彼との恋も順調に見えた。しかしある事件をきっかけに2人は別れ、ヒロインは落ち込んでいた中を男友達に救われ、彼と付き合うようになるも再び芸能界に惹かれ、彼を捨て、そして再び事件が彼女を襲う」

 というはなしである。なお胸糞なシーンが2回くらいあるので、カップルで見に行くのはおすすめできない。

溺れるナイフのナイフとは、10代の自意識のことだとwikipediaに書いてある。確かにwikipediaの言うとおり主人公とその恋する彼の自意識とそれが壊されて修復していく物語だという解釈も出来るけれど、むしろぼくは主人公たるヒロインの姫性について考えた。ナイフとはその姫性によって周りを傷つける主人公のことを指すのだと思う。その主人公が溺れもがくから、溺れるナイフなのではないかと。

 

姫性について

ストーリーについて別の解釈をすると、「姫性をもったヒロインに巻き込まれた彼女と友人たちの物語」という解釈ができる。大なり小なり僕達の回りにも姫性をもった人たちがいる。例えば、自分の都合を押し付けているのにまわりが従ってしまう人、まるで主人公のようにその人のまわりに人間が集まる人、何かしらイベントが起きる原因をつくり周りを巻き込む人、そういう人を僕は勝手に姫性があると呼んでいる(主人公性とはちょっと違う)。たとえ嫌々だとしても結果として僕たちは姫性のある人に巻き込まれてしまう。そういう姫性の高いのが、溺れるナイフのヒロインだったように思う。

けれど、その姫性をもった人たちはその人たちで一生懸命に生きている、悪意はないかもしれない。だから当の本人たちには罪がないようで極めて罪深い。劇中で主人公が芸能界への憧れを捨てきれず、東京に戻る決意をする、そのときに「こんな最低の私を…」と自分を救ってくれたクラスメイト(当時彼氏)に別れを告げるシーンがある。

また、最後のシーンで主人公は、「もう彼(菅田将暉)に近づかんといてくれ、あんたが近づくと彼が狂う(※正確には覚えていない)」と彼の幼馴染みに告げられるシーンがある。

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“自分に姫性はないだろうか?”

そういう問いかけを突きつけられたような気がした。何も姫性があるのは女性だけには限らない。男にだって姫性が在るやつはいる。自分に姫性があるのではないかとわずかに不安になった。奇しくも最近、お世話になった人たちを裏切るような形で自分のしたいことを貫くことを決意したばかりだったので、なおさらに。ただ、一方で自覚したり、自分の姫性を疑う程度じゃ「まとも」なのかもしれない。姫性は才能と、人を引きつけるという点において近いところがあると思う。

過剰な自意識と没頭こそが才能に必要とも思っている。例えば天才バレリーナを描いた「昴」「MOON -昴 ソリチュード スタンディング-」では、天賦の才によりあらゆる人を巻き込み、様々なトラブルを起こす主人公が「私って可哀想」と自嘲するシーンがある。他人を散々巻き込んでおいて、他人にどれだけ手間をかけさせておいて、その結果出る言葉が「私って可哀想」、ひどくエゴイストで気持ちがいい。自分の見える世界の範囲しか見えてない。「そうでないといけない、才能は」と思わせてくれる。

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実はこの文章はある人を思い浮かべながら書いているのだけれど、その人も極めて自分の姫性に無頓着であり、おそらく自分が招いた出来事の数々について「あー私って可哀想だな」と思っている。何よりそれに近い発言をしたことがある。

当時はふざけんなよと思っていたけれど、今思うにあれは姫性で、それに巻き込まれていたのだなと。いよいよ自分の凡人性を再確認している。

なので、先の自分の姫性の不安については解消された。まだぼくはきっと、可愛い方なのだろう。

すごい人ほど無関心である問題について

講演会とか、ワークショップとかですごい人とあって話すことがある。

その人の話を聴き、僕が自分のことについてしゃべっていたり、僕意外の人がその人にはなしているのを観て、「あ、この人って他のことに興味ないのかな」と感じることがよくある。

そのすごい人たちは確かに相手のことを見ている、けど見ているけど、観ていない。ぼくはそう感じる。「なんかこの人つまらなそうだな」と思う。

僕も同じ感覚を感じることがよくある。ぼくは別に何もすごくないけど。

人の話を聴いてるけれど、聴いていない。

正確に言うと、届いてない。フィルターを越えてこない。

仕事のことでたまに上司からなんか言われるけど、大抵覚えられない。ぼくは頑張って聴いているつもりで、必死に耳を傾けているのだけれど、本能というフィルターが耳の何処か、もしくは脳みそのどこかにあって、そこをその言葉が越えてこない。上司がみたらブチ切れそうだ。

自分と同じ感覚だと仮定して考えてみる。

 

すごい人は、そのすごい分野に対してすごいのだ。だから、アタマのなかはそのことばかり考えている。RAM(思考力)もストレージ(記憶)もそれらのことにリソースを割いているから、他のことに割く余裕がない。あるけど、自分が取り組んでいることに対して使いたいから、きっと脳が無意識に制限をかけてしまうのかもしれない。

たぶん彼ら彼女らは興味がない。いい意味で。

フィルターを越えてきたものには人の何倍も何十倍もの興味を示す、突き詰める。だからすごいのだ。彼ら彼女らの表情とか態度を見ると無関心なようで、そっけなくて、なんだかいけ好かない人だなと思うことが多いけれども、それはすごい人だからしょうがない、しょうがないと思うようにしよう。

そうじゃなきゃ、すごくなれないのかもしれない。

 

そして、すごい人はすごいことを認められているが故に、無関心が許されるのだ。

だってあの人はすごいから。

 

だから、みんなすごくなろう。